チャーリーブラウンの鐘 (完全版)

 

1985年の元町。人通りの消えた夜の街角にも少しだけ秋の気配を感じ始めた頃だった。

 

その日は誰ひとり、お客さんの来なかった店のかたづけを終えた僕は、

椅子に座ってぼんやり空間を見つめていた。

その時、突然ドアが開き、久しぶりの友人が入って来た。

世界中の誰が見てもきっと「冴えない奴」だと思うだろう僕の顔を見た友人は、

まるで災害救助隊のようなまなざしで救いの言葉を投げかけてくれた。

「一杯飲まへんか?奢るから」と・・・。

 

そこは、南京町を抜け、まだずっと南に下って行った所・・・。

人通りのない夜の海岸通に浮かぶブルーの四角い看板が目に入った。

「CHARLIE BROWN」・・・友人はそこを目指しているようだった。

「ぜったい、やばいで・・・外人バーやろ?」

「大丈夫や」と、振り向きながら友人は笑う。

猫しか通れない程狭い路地の、

猫の目だけが光っているような暗闇の向こうに店の入り口がある。

その薄明かりを目指して、先を行く友人。

とりあえず僕は友人に命を預けることにして、

猫になった気分で後を追った。

 

色褪せた木の扉を開けた時、ギーッと軋んだ音が猫の鳴き声に聞こえた。

周りを見回したが猫はどこにもいなかった。

友人に続いて僕は店内にすべりこんだ。

外国語で交わされる陽気な話し声と笑い声にロックンロールのサウンドが重なる。

エディ・コクランの「サムシン・エルス」だった。

それで充分・・・気分がいい。

 

第一印象はいつでも肝心だ・・・。

 

ほんの一瞬、生まれる前の自分になれたが、またすぐ現実に引き戻された。

 

カギ型のカウンターに座っている重量級のレスラー達を見たからだった。

毛むくじゃらのごっつい腕にはタトゥーまである。怖い・・・

レスラー達は僕たちに一瞥をくれた。緊張感がはしる。

が、友人は慣れたもので、すぐにレスラー達の横に座り、挨拶をかわした。

その頼もしい友人に命を預けたからには、僕も堂々とした風体を決め込み、

友人の横に座ったが、やはりどうも落ち着かなかった。

 

カウンターの中にいるリーゼントのマスターは、

さっきからずっとスタン・ハンセン似の男と話し込んだまま、

こちらを向こうともしない。

マスターの腕には可愛いスヌーピーのタトゥーが彫られていた。

なるほど・・・それで「チャーリーブラウン」か・・・。

 

外国の船乗りは、俗世間と訣別する証としてタトゥー(入れ墨)を入れ

「大いなる海の神様」に身を託すという話をどこかで聞いた事がある。

このマスターも世界の海を渡ってきたのだろうか?

金髪のブロディ似の男と楽しそうに話している友人を見て、

僕も少し落ち着いた気分になってきた。

店内に漂う、嗅いだ事のない葉巻きのような香りがそうさせているようだった。

まさかマリファナじゃないだろうが・・・。

 

不思議なカーブを描くカウンターの黒く鈍い艶が年代を窺わせる。

外人バーのカウンターの奥行きは日本のバーより若干幅広く取るという話を、

初老の大工さんから聞いたことがある。

それは、2メートルもある酔っぱらいがカウンター越しに手を伸ばし、

ボトル棚の酒を勝手に飲んだりするのを防ぐ為だそうだ。

 

天井の間接照明の柔らかい光の下で、

波のように並べられたボトルの天辺が描く曲線が美しかった。

初めて見るのに、どこか懐かしい気分になるのはなぜだろう。

昔、学校をさぼってリバイバル映画館で飽きる程見た日活映画の1シーン。

似たり寄ったりの小林旭の映画には、

いつも決まって喧嘩が始まる港町の酒場が出てくるのを想い出した。

そんな映画をまた飽きもせずに何度も見て、

何処にあるのかもわからない、あの酒場に行ってみたいという衝動にかられた事が何度もあった。

今、まさに僕はそのスクリーンの中にいるようだ。

にわかの主人公になった僕は、

さらに店内を見渡して不思議な物を見つけた。

誰でも一番目に着くであろうバック棚の中央上部に大きな伊勢海老の入った額が、

奉られるように飾ってある。

もしかしてそれが大いなる海の神様なのか・・・。

 

入って来た入り口の方を振り向くとそこには、

錆びかけた西洋風の鐘がぶら下がっていた。

外国船員バーに必ずあるというその鐘は、

長い航海の途中で立ち寄った港の同郷の旧友たちとの再会を祝う為に鳴らすのだそうだ。

そしてその鐘を鳴らした者は全員に酒を奢らなければならないという楽しいルールがあり、

その場所に居合わせたらきっと脳天気な船乗り達の世界を垣間見れたかもしれない。

 

僕の祖父は東北の生まれで、家族が多かったのと貧困で

若くして町に働きに出されるのが定めになっており、

祖父の選んだのは外国航路の船員だった。

船員といっても荷役とかそんな力仕事だったと思うが、

確かに祖父の死後の荷物整理の際に机の引き出しから

外国のコインがいっぱい出てきたのを子供心に覚えている。

たいへんな酒飲みだったそうで、僕が小学2年生の時に肝硬変で亡くなった。

親父のいない僕は祖父が大好きだった。

見知らぬ異国の話もきっと子守唄がわりに聞いていたのだろうか。

そういえば、船乗りに憧れていた時期が確かにあった。

でも、船乗りで酒飲みなんて、まるで僕は隔世遺伝やんか・・・

と、またもや生まれる前の自分を想い出そうとしたところで、

突然マスターが目の前に現れた。

 

長身でハンサムでリーゼントのマスターは、デンマーク生まれでキディと呼ばれていた。

1969年、船を降り、この「チャーリーブラウン」を始めたらしい。

ビールを注文した友人が簡単にお互いを紹介してくれた。

僕はその頃、元町で猫の額のようなカフェ「ムーンライト」の経営に四苦八苦している最中で、そのカフェはオールディーズのR&RやR&Bを流す、どっちかと云えば音楽喫茶みたいな店だということを説明すると、

驚く事にキディは、店の名前は知ってると言って初対面の僕に微笑みかけた。

 

 

 そうして僕は「チャーリーブラウン」に通い始めるようになった。

 

自分の事を多く語らなかったキディの、

数少ない言葉のひとつひとつが当時の僕には大変貴重で価値あるものだった。

「シュミとシゴトをイッショにシタラ、ビジネスはウマクイクワケナイヨ」とか突然言い出す。

まだ20代のアメリカかぶれのリーゼント小僧が、

デンマークの筋金入りロックンローラーに教えられたことは多い。

 

結局、元町のカフェ「ムーンライト」は1985年の暮れに思い切って閉店することに決めた。

それから7年を経た1992年2月、

「チャーリーブラウン」のすぐ近くの栄町通に場所を移し、

バーとして「ムーンライト」は復活したのだが、

ちょうどその頃にキディは突然の病を患ってしまう。

体調の悪くなったキディを奥さんや妹のランディや友人のエリック、

そして同じようにキディのもとで不良の哲学を学び、

大阪で活躍している僕の友人のチャーリー・ニーシオらが片腕となって

「チャーリーブラウン」を維持しつづけたが、

残念ながら1994年の夏の終わり・・・。キディは帰らぬ人となった。

 

キディが亡くなって長い月日が経った今でも、

先輩方が当時の外人バーにまつわる興味深い話をいろいろ聞かせてくれる。

 

戦後の神戸には、「かまぼこ兵舎」と呼ばれた米軍キャンプが磯上にあり、

そこの兵隊の為の憩いの場所として作られたのが、

「外人バー」の始まりだとか・・・。

「キングス・アームス」があったフラワーロード辺りから旧居留地を経て

元町、南京町界隈、そして「チャーリーブラウン」のある海岸通やここ栄町通近辺まで

一時は100軒近くの外人バーが存在したらしく、

オーセンティックなバーからレストランバーそして兵隊や船員相手の「酒と女」がウリの店まで、

いろんなタイプのお店を総称して「外人バー」と呼び、

「夜の女」という肩書きがなければ日本人は入れなかったそうだ。

今でも米軍基地周辺には、昔の名残をのこした米兵向けの飲屋街が全国に点在し、

時々映画のロケでも使われている。

そのあまりに妖し気で淫靡で危険な香りがする店内の映像はいつまでも記憶に残っていた。

戦後はまだ幼なかった先輩方も「外人バーエリアには近づくな」と親からキツく教えられていたそうで、

荒くれ兵隊が酒飲んで暴れ回る光景を偶然目にした時の子供心の恐怖は想像がつく。

特に米兵同士の喧嘩に加え、ヤクザの縄張り争いや地権争い、イザコザ等も日常の出来事だったそうだ。

 

米軍キャンプも撤去され、昭和30年代には、

米兵に変わって外国貨物船の船乗りたちが続々と陸に上がり馴染みのバーに繰り出していく。

其処に行けば必ず、美味しい酒があり、好きな音楽が聞け、目当ての女や男?が待っていた。

故郷のないスクリーンの中の渡り鳥だって、

見知らぬ国の船乗りたちだって、どこかに安らげる場所を探していたはずだ。

酒場に理屈はいらない。

 

僕はここ数年で目まぐるしく変貌してきた海岸通や栄町通を横目で眺めている。

関係ないとウソぶきながら頑に「港町の酒場」にこだわり続ける僕を見て、

キディが生きていれば、きっとこう言うだろう。

 

「ムカシ・ワ・ムカシ・イマ・ワ・イマ・ナ・・・ワカル?・・・テツ・・・」

 

神戸の港が華やかで活気に溢れ、そして町の経済活動の基盤だった「ムカシ」を僕は知らない。

みかん箱から溢れ出すばかりのドル札を片足で押さえながら酒を作っていた時代は、二度と来ないだろう。

そして、高度経済成長による物流の変化と港湾、海運業の近代化の下にコンテナ主流となった「イマ」がある。

すでに世界の船乗りたちは、条件の良い近隣アジアの港に鞍替えをしたと聞く。

 

「ムーンライト」に毎年のように訪ねてくれたイギリスのトミーさんも、2年か3年に一度しか来なくなった。

壊れたテレビを抱えてモトコーを歩く、

妖し気な東南アジアの船員たちも知らないうちに何処かへ消えた。

 

汽笛が聞こえない神戸は寂しい。

 

「チャーリーブラウン」の鐘はもう鳴らないのだろうか・・・

 

 (*フリーペーパー「神戸からのメッセージ」(2006〜2007)に連載されたものを編集したものです。)

フリーペーパー「yurari」vol.3 (2013年)

BAR特集の中の "外人バー" というエッセイには "Bar Moon-Lite"と"CHARLIE BROWN" が

モデルとして登場します。波止場通信社の竹内さんありがとうございました。